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「100年経営企業」は、社会経済構造の変化、戦争や災害など幾多の困難や危機を乗り越えて存続してきた。21世紀は、日本国内では人口減少による市場縮小が進む一方、グローバルなサプライチェーンの動向が経営に直接影響を及ぼす時代だ。100年以上培ったブランドや組織を活かして、激動の時代をどう勝ち残っていくのか。2022年に100周年を迎える2社のトップに、これまでの100年とこれからの100年について聞いた。

1社目は、「カステラ一番、電話は二番」の仔ぐまのカンカンダンスのテレビCMで知られる株式会社文明堂東京の宮﨑進司社長。老舗ののれんをどう引き継ぎ、コロナ禍で贈答需要が変化する中でどう変わろうとしているのか。

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代表取締役社長 宮﨑進司氏

-「カステラ」といえば文明堂が思い浮かぶ、圧倒的な知名度です

文明堂としての歴史は、1900(明治33)年に長崎で「文明堂総本店」が創業したことに始まり、今年で122年を数えます。当社は、そこからのれん分けで誕生し、創業と創立を区別しています。創業者の弟であった当社初代の宮﨑甚左衛門が上京し、東京で商売を始めたのが1922(大正11)年。この年を当社では創立年とし、2022年は「東京進出100周年」と表現しています。

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大正期の一族

―上京後の事業展開は

初代は上野黒門町(台東区)に店を構えたものの、わずか1年後の1923(大正12)年に関東大震災で被災し、いったん長崎へ引き上げました。しかし、すぐに上京し麻布(港区)に店を再び構えました。この初代が、時代に即した卓抜したマーケティング手法と「のれん分け」の活用で事業を拡大していきました。

―マーケティングの具体事例は

ひとつには百貨店での実演販売です。大正時代に焼きたてのカステラを店頭でお客さまの目の前で切り分けて販売しました。インパクトは大きく、これが百貨店での実演販売の最初といわれています。

もうひとつはおまけ販売です。当時カステラは高級贈答品のため、実際に店頭に買い求めに来るお手伝いさんは食べたことがない。そこで土曜、日曜・祝祭日限定で店頭においておまけとしてミニ箱でカステラを配りました。おいしさをお手伝いさんから雇用主にも伝えてもらうことで購入機会の増加を狙ったのです。

昭和10年頃には電話局で精力的に電話番号「二番」を取得し電話帳の表紙裏に「カステラは一番、電話は二番」の広告を出すという広告戦略を展開しました。その流れを受け、テレビ普及初期の1957(昭和32)年に「カステラ一番、電話は二番、三時のおやつは文明堂」というコピーのテレビCM を投入。カステラと文明堂の組み合わせを、全国的に浸透させました。こうして長崎のローカルなお菓子だったカステラを広く愛される菓子に成長させたのです。

-のれん分けについてお聞かせください

1933(昭和8)年に初代の長女夫婦が工房付き店舗を新宿に出店したのを皮切りに、1939(昭和14)年には三女夫婦が銀座に出店。初代の子女や親族が日本橋や神戸や横浜などに次々と出店しました。これらの店舗が戦後各地で「文明堂」として法人化していきました。

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昭和8年の新宿店

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昭和25年改装後の新宿本店

-のれん分けのメリットは

それぞれ法人トップが経営判断できるため意思決定のスピードが早いこと。さらに互いに切磋琢磨し向上しようという競争意識が生まれます。また、一般消費者向けのビジネスでは地域へのコミットメントが非常に重要です。地域密着の展開で地元の方に応援いただき、ブランド浸透に寄与しました。

-しかし、その後法人を再編統合されました。その背景は

のれん分けはブランドの浸透に効果があった一方、制度疲労ともいえる弊害もみられるようになりました。新宿、日本橋や銀座で、法人別に店舗を運営し、長年の間に商品構成や味も異なります。

しかし、屋号がどこも「文明堂」のため同一法人が運営していると誤認されたお客さまから「以前購入したカステラと味が違う」といったクレームが入るようになってきました。

2000年代は食材偽装事件などが相次いだこともあり、緩やかな連合体であっても、1社に不祥事が発生すると他法人も同一視される風潮も気になっていました。インターネットで誤情報が一気に拡散する時代には、後から訂正することは至難の業です。このままの状況ではリスクが大きいと判断したのです。

後編に続きます。

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